つれづれログ。

たぶん自己肯定感が高くて成長が見込めない人の忘備録

俗世に飲まれた天才の話~アマデウス感想~

 

『凡人が天才の真似をするな』

 

初見時に頭に浮かんだのは、今熱中しているゲームの台詞だった。*1

 

私は出世や名声、俗世の地位に囚われながらアマデウスに憧れるサリエーリが憎くて仕方がなかった。

愉快な音楽が泉のように湧いてくる、そんな天才の音楽が俗世を生きる彼によって途絶えてしまうのが心の底から許せなかった。

 

アマデウスの最期、サリエーリは「一人にしてくれ」と言っていたけれど、そもそもサリエーリとアマデウスは始めから二人なんかじゃなかった。

神の御声が聞こえる特別な耳を持ち、あの狭い宮廷でアマデウスの才能を見いだせるただ一人の人物でありながら、彼はアマデウスの理解者にすらなれなかった。俗世に馴染めない「特別な」アマデウスと、俗世でしか生きていけない「平凡な」サリエーリという二人の男の構図は最後まで崩れなかったはずだ。

 

私は照史くんが演じるアマデウスが可愛くて大好きだったから、余計に腹が立ったのだと思う。

サリエーリもコンスタンツェも、アマデウスを理解するどころか、俗世に押しとどめて生きづらい方へと誘っている存在に見えてすごく息苦しかった。居場所がない、拠り所がどこにもない、アマデウスの周りに漂う圧迫感と孤独は座って観ているだけの私に十分すぎる不快感を与えてきた。*2

彼は天才だと明言したのはサリエーリだ。劇中で音楽に理解のある人間はサリエーリただ一人。アマデウスの音楽に心から魅せられていたのも彼一人。それを自分でもわかっているのになぜ、アマデウスと自分の関係に「勝ち負け」という表現を用いたのか。どうしてそこまで分がわきまえられないのか。

 

発端の気持ちはとてもよくわかる。

神に願い、幸運を手にし、努力を重ねたサリエーリにとってアマデウスの存在は恨めしく、煙たかっただろう。一度信じた神の仕打ちに腹を立てるのも無理はないだろう。

この物語の語り手はサリエーリである。観客である私たちに意思を持って語りかけてくるのはサリエーリのみ。私たちは必然的にサリエーリに感情移入して彼の思い出話を聞くようになる。私も彼の「名声が欲しい」という素直な願いに共感し、アマデウスへの嫉妬も理解できた。

だからこそ、あんな中学生のような低俗なやり方でアマデウスを貶め、あろうことか得意げに笑っていたサリエーリが許せなかったのだ。

彼の用いた武器は自分の地位、そして彼の思惑一つで簡単に動いてしまう宮廷社会。どちらも音楽にはまるで関係ない。彼は自分の生きる俗世からアマデウスを追い出し、彼を死に追いやることで勝ち誇った気になっていた。アマデウスの音楽を理解するに及んでいない皇帝、古くからの慣習にとらわれた音楽こそ至高と思い込んでいる宮廷社会の人々…。音楽を理解できない彼らが、音楽における類まれなる才能以外まるで持っていないアマデウスを煙たがるのは当然のことである。そしてサリエーリは、そんな当たり前の悪意を利用しないとアマデウスを困らせる事すらできなかったのである。

 

アマデウスの死後、まだ音楽で名声を得たかったかのような物言いをするサリエーリを私は軽蔑した。

最初から音楽においてサリエーリに勝ち目などなかったのだ。

彼は自分にとって優位な俗世にアマデウスを引っ張り込んで、音楽に疎い人間たちを使って彼を貶めたのだ。落ちぶれるのも破滅するのも当然だ。アマデウスは俗世に生きるべき人間ではなかったのだから。

そして残ったサリエーリには薄っぺらい、死後数年経てば消え去るような上っ面の名声だけが残った。その薄っぺらい名声がいかに空しいか、彼は晩年まで理解できていなかったのだ。

冒頭で散々私たちを共感させておいて、なんと愚かな男だ。

私は怒っていた。三階席から小さな彼の姿を見下ろして、心の底から彼を軽蔑した。

全ての独白を終えた彼は「アマデウスを殺した」という噂によって後世に名を残そうとするが、町中の噂の声は彼の独白を信じない。最期の企みすら失敗に終わる哀れな男を見ながら、明るくて下品なアマデウスを想った。こんな男の悪意に彼は殺されたのだ。なんと遣る瀬無い。

 

彼は普通の人間として生きていくべきではなかったのだ。

死に近付いたアマデウスが思い出していたのは、幼いころの栄光と父親の姿だった。サリエーリと仮面の男、近づく死の気配に怯えたアマデウスが叫んだのも「パパ」だった。

彼に必要だったのは自分を悪意から守り、明るい場所に導いてくれる父親だったのだ。

コンスタンツェとの結婚も、サリエーリという友人の存在も、彼にとっては破滅の入り口でしかなかったのだ。

コンスタンツェが必死で語り掛ける言葉に耳も向けず、自分にしかわからない鎮魂歌に指揮を振るアマデウスを見た時、そんな空しいことを思った。

普通の女の子として幸せになろうとしていたコンスタンツェの言葉は、アマデウスには何一つ届いていないのだ。そして死に直面した彼の恐怖やアマデウスの音楽も、コンスタンツェにはわからなかった。噛み合わない最期の会話は、二人が最初から交わるべきではなかったことを暗示しているようで、見ていて辛かった。

 

誰も立ち入れない世界でただ一人、彼は指揮を振りながら眠りについた。

最期に彼の頭の中で響いていた音楽が、彼にとって安らかで、優しいものであればいいな、と思う。

 

 

 

 

東京で一回、福岡で一回。たった二度の観劇でも、ものすごく体力のいる舞台だった。

感情が忙しい上に、その殆どが怒りや悔しさなのだ。のども乾くし、妙に力が入ってしまう。

そんな中で、照史くんの扮したアマデウスの存在は眩しかった。彼が無邪気に笑い転げていたのはわずかな時間だけれど、それでも十分なくらい、明るくて楽しかった。

照史くんのそこにいるだけで、笑うだけで、場が華やぐ不思議な魅力は、誰かを演じていても健在だった。やっぱり照史くんはすごい。

 

 

 

土地勘のない久留米の町を歩きながら、この気持ちを忘れないうちにブログを書こうと思った。

こんなに感情を忙しくさせる舞台に出会える照史くんを心から羨ましいと思った。

 

 

あわよくば次は自担が演じる何かにフラフラになるまで感情をかき回されたいなぁ。

 

 

照史くん、「アマデウス」お疲れさまでした。

 

*1:私がアマデウスの人となりに触れるきっかけになったのもこのゲーム。観劇前にやって良かった。

*2:勉強不足のため史実はわからないし、これはあくまで今回の公演を見ただけの感想です。